2014年02月10日

お釈迦さまものがたり[33]《悟りへの修行》

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ま〜最近、よく雪が降ります。
景色はきれいなんですけどね。


雨季が終わりを告げたある日のこと、

父・シュットダーナーから身辺護衛のためにと派遣はされながらも、

自らゴータマの弟子となって苦楽を共にし修行をしてきたコースタニヤら五人に対して、

ゴータマは心の中をこのように打ち明けます。


「あなた達と共に生活はしてきたものの、

結果は少しも前進しないようだ。

共同生活をするとカピラでの生活の延長にもなってしまう。

王子と家臣という関係が再び生じ、

あなた達は何かと気を使ってくれるし、

こちらもつい・・・それに乗ってしまう。

ありがたいことだが、修行はあくまでも一人でやるべきであろう。

他人の肉体的苦痛を自分が代わろうとしてもそれはできないように、

悟りもまた、独力であるはず・・・」



こう決まると、

ゴータマは一時的に彼ら五人と別れを告げ、

何らかのキッカケがつかめればと思い、

近くのガヤダナまで行きます。

そこで拝火教の一つであったフイフイ教の修行者

ワイヤリス・スタディー

という老僧に会い、話し合ってみることにした。 

たが期待とは裏腹に、


フイフイ教もヴァックーバー仙人と何ら変わらず、

肉体行一途でしかなかった。


それ以外のバラモン修行者とも積極的に会うことにして、

いろいろ話し合ってみたものの・・・


結果はみな同じ


一番の関心事であった「心の問題」については、

全く解答が得られない状態でありました。


いずれも、

悟りへと迫る理論的な組み立て・修行内容・修行方法などについては、

彼のアララ・カラマー仙人よりは劣っていることがわかり、


あらためて悟りへは自らで求めていくしかないことを

思い知らされることになったのである。 


やむなくゴータマはウルヴェラへと再び戻ることにした。

それから、五人の仲間と膝を交え、

彼らとは共に情報交換をしながら、

思う存分exclamation語り合ってみた。


彼ら五人もラジャグリハの町で多くの修行者達の説法を聞き、

生老病死の問題についてたびたび討論をしていたのである。

他の修行者達は

どんな考え方を持ち出して、

どんな修行方法を凝らし、

どこまで悟りへと近づけたか?
 


とはいえ・・・なかなか結果らしきものは得られません。


彼らもまたゴータマと同じように、

悟りは自分自身でひも解くもの、

人をあてにしてはいけないもの


との結論に至ります。


次回《金緑色の光》です。
早めに更新しますふらふら
お楽しみに


posted by どうざん at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月26日

お釈迦さまものがたり[32]《金色の光》

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前回から、すご〜〜く・・・

間が空いてしまいました

前回まではといいますと、

悟りへと近づくためには、

自分自身が持つ「心・想念のあり方」こそ

その修行対象であることを確信された

ぴかぴか(新しい)お釈迦さまぴかぴか(新しい)

月日が経つのは早いもので、

城を出て、もう四年が過ぎた頃・・・

5月・6月の雨雨季雨の時分であります。

ゴータマは心を静め、ひたすら穏やかになろうとし

瞑想三昧に入っていた。

洞穴の中は薄暗く、じめじめとして気分は悪い。

しかし、そんな中でも、

どういうわけかその日は心が落ち着き

気分も爽快で実にすがすがしい。 


すると・・・


不思議なことに、瞑想が深くなるにつれ、

急に眼の前がぴかぴか(新しい)金色ぴかぴか(新しい)に輝き出したのです。 

同時にぴかぴか(新しい)黄金色の光ぴかぴか(新しい)が実に滑らか

気持ちがよいるんるん旋律音るんるんに乗せられて

ゴータマの温かく包まれていくではないか。


じーっとそれに集中傾けていくと・・・

そのますます強度を増していくようになるのです。

やがてその人の形に見えてきた。


「梵天だ! 梵天が現われた―――」


ゴータマは思わず心の中で叫んで言った。

やっと四年の労が報いられたexclamation×2そうも思った。



・・・だが、そう思った次の瞬間・・・



金色の光はアッという間に消え失せ

今のいままで聞こえていた旋律は、

洞穴の外で降る雨音に変わっていた。 

ゴータマはまたもや梵天を見ることができなかった。

これまで四年の間に、こうした現象は何回かあった。

そうしてそのたびに、

心を動かし、現実の自分に戻った瞬間、

その黄金色の光暗闇に変わっていた。

しかし考えてみると、

こうしたを見るときは決まって心は穏やかであり、

この世に生きる自分を離れたときであった。


ゴータマは、

これら実体験を何回か繰り重ねることによって、

この世に対してとらわれがなくなった時、

ないしは物事への執着がなくなった時の、

自らが置かれた心境状態と、

心の眼の中に迫ってくる霊的な現象との関連性

について、

この両者は心という世界にあっては

相互に強く結び合っている
ことについて、

学んでいくことになるのです。 



今日は、木盛龍彦さんのトークライブの日です。(午後1時から)
お時間ある方は是非

 
posted by どうざん at 01:57| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月01日

お釈迦さまものがたり[31]《ゴータマの師とは》

コンギク(紺菊)
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お釈迦さまものがたり[番外編11]《肉体【物質】と心【精神】2》で書いていました、


五官六根


心の表面層で働く自分よがり

短絡な「想念」活動によって、

私達のほとんどが判断され、

そして決められ

毎日の生活が積み上げられていくようになる・・・


これが現状です。もうやだ〜(悲しい顔)


このように、

私達は心の中、それも心の表面層で働く「想念」

という意識活動によって

大きく影響がされることになるわけであるけれど、

逆にそれに対しては

何がしかの注意などすることなく


想ってはまた別の想いを心につくり、

また想っては違う想いをつくりと・・・



心の中で展開させていく想念内容には


何ら責任など感ずることなく

自由気まま、勝手気ままに

心の中で想念画像を描き出し、

まさしく私達は想念の中で生活をし、

想念の中で呼吸をし続けながら・・・



生きていることになります。 


考えてみれば、私達・日常生活の中にあっては、

実際に行動すること以上に、

心の中でする想念

それも表面意識層からなる場当たり的な想念活動をして、

いかに多くを生きているものか、

そのことがよくわかってきます。


誇張していえば、


私達は心の中で働く「想念」という意識活動によって

人生のすべてが作られ

人生のほとんどが決められ


それらによって私達の生涯は全うされていく



そのことがよくわかります。 



そうなのですexclamation

まさに私達人間がする


「心・想念のあり方」


ここにこそexclamation×2

探究を差し向けていく目的対象があるべきもの

ということになります。

よって、

人間の苦悩や憎しみや悲しみなど、

それら生老病死にかかわる煩悩苦については、

「心・想念世界」の対象領域の中


これとどう取り組み、

どう解決をはかっていけばよいのか



そのことが読めてきます。 


ゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)には、


頼れる師はとうにいないexclamation

悟るためには自分自身以外にはありえないexclamation×2


この時点で、それを知っていきます。

そしてここにおいて、

より一層、悟りへと近づくためには、


自分自身が持つ「心・想念のあり方」にこそ

その修行対象はあるべきものexclamation×2


それが確信となってはっきりとわかります。


こうして、ゴータマ・シッタルダの眼前には、

これからの修行のあるべき道筋

洋々と開かれてくるようになっていくのです。
posted by どうざん at 13:19| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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