2013年06月04日

お釈迦さまものがたり[28]《悟りへの糸口》

雨梅雨入り雨した途端・・・



寒い・・・がく〜(落胆した顔)



しかし、今日は久しぶりに窓全開exclamation×2


かわいい気持よい風が吹き抜けていきますかわいい


ということで、

野いちご.jpg
野いちご



前回は、


無の境地

そして、絶対的な無


また、それらをずっと持続させたまま居続けること


これらは、私達に心が存在をしている以上



絶対不可能exclamation×2



というところで終わってました。



分かりやすく言えば、


「無の状態」になっている自分

を想い描いている



想いに浸っているだけってことです。


ですから、


想いを断ち切るという想いも、


同じ「想い」には変わりありません。


そんな想い「想念」の堂々巡りであり、


かえってそれは「想い」執着へと成りえます。



これらアララ・カラマー仙人がとなえる


非想(無)から非非想(絶対無)


といった考え方自体・・・


を常に自らとして携えながら生きている

私達人間のありのままの姿



言うなれば、


「想念」という不可欠ともいえる人間の意識の働き

無理に止めようとさせる「意思の働き」


を意味していることになるのではないでしょうか。


こうした「想念という不可欠ともいえる人間の意識の働き」は、


私達人間・心魂が持つ進化向上を促がしていくものとなりますexclamation


しかし、


心の内からこんこんと湧いてくる想い

無理に止めようとする「意思の働き」は、

人間進化向上を阻害させ、

さらにそれはそのまま新たなる想いを作り出していく



ということになるものといえます。 


また、精神分析の上で不可解な疑問も出てくるのです。 



人間にそなわる五体思考(想うこと)は、


この地上に生かされ生きていくために、

自然が与えてくれた・・・


言わば、

最低の保障であるはず。


私達人間はそう生きるように作られ、

そう生きられるように与えられている。



それを、どうして???


故意に、人間の浅はかな思考と意思によって

それら保障を破棄しようとする
のでしょうか。



これら人間性を曲げてまでの修行法には同調はできぬし、

そんな考え方からは神(バフラマン=梵天)の心を掴むことはできるはずがない。

こんな両極端ともいえる思考や行為からは、

生老病死からの解放へと導き出してくれる「悟り」など・・・

得られるはずもない。
 



ゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)それを思われたのでした。 




さすがにぴかぴか(新しい)お釈迦様ぴかぴか(新しい)ともあろう人です、

事を見てその理非を達観する

とても分析が鋭いexclamationと言えますねわーい(嬉しい顔)



ゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)は、

これら観察を通して、


やたら肉体をいじめ「身体不倶者」になることも・・・

意識思念を完全停止させ「生きていくこと自体をキャンセル」することもない・・・



「悟るための別な修行法の存在」を確信していく



そんな端緒がここで掴められていくことになるのですexclamation×2


posted by どうざん at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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