2013年06月19日

知ってますか?茶神と呼ばれた人

なんだか雨梅雨入り雨してるのに、少ないですね。


しかも動真庵では、爽やかな風が吹いてましたよ。るんるん



昼寝最高exclamation×2
※注:私はお昼寝してませんよ(笑)



そんなとき、よく来てくださるお客さんのNさんが、



「あなたと同じようなことやってた人が載ってるよ」



と、情報誌をくれました。


それがこれ

IMG_20130618_221409.jpg

JR九州さんが発行されている

旅のライブ情報誌【Please(プリーズ)】

「ご自由にお持ち帰りください」というものです。


No.312 5月号の中にありました。

IMG_20130618_222952.jpg

禅宗(黄檗宗)のお坊さんです。


お茶で有名と言えば・・・


ご存じexclamation


千利休


侘び茶の祖・茶聖と称され有名ですが、


このお坊さんは、煎茶の祖・茶神と呼ばれている方です。


高遊外 売茶翁(1675-1763)


この方の功績はといいますと、


当時、お茶は薬として珍重された時代でもあり、

身分の高い人の飲み物ふらふらでした。


要するに、上流階級の文化だった「お茶」


その喫茶の風習

かわいい庶民にまで広めた人かわいいです。


この方、出家修行した寺を継ぎ、そして高僧への出世の道をも断って


京都の鴨川のほとりに、


「通仙亭」という小さな庵(いおり)


を構え、売茶(茶店)の暮らしをされていたそうです。



そうこれが・・・



ぴかぴか(新しい)日本初の喫茶店ぴかぴか(新しい)



と言われています。



では、何故?高僧の道絶ち売茶なのかですよね。



これは、どうやら『自活』の手段だったようです。


どういうことかというと・・・



当たり前のようにお布施をもらい、

身分の高い人の飲み物だった

茶の湯をもて遊ぶ

当時の僧侶たちへの不満、



そして、「士農工商」という身分制度の中で

最も賤(いや)しいとされる

物売りをすることで痛烈な体制批判



を込めていたそうです。


売茶翁の著『対客言志』の中で


「うかうかと眠り呆(ほう)けている人の目を覚まさせたい」


と語り、煎茶というツールを使うことより


多くの人に仏の教えを伝えようとしました。


伝えによれば「通仙亭」には、


『清風』の旗が掲げられ、


『一啜為君洗心腑』
(いってつきみがためにしんぷあらわん)

【一碗(わん)の煎茶であなたの身も心も洗い流します】


などの偈語(げご)が貼られていたそうです。


ちなみに『清風』とは、


一切のこだわりから抜け出た清々しい境地


を指す禅語です。


それまでのややこしい煎茶の作法を簡素化し、


気軽にお茶を楽しめるようにした。


そして、一杯啜(すす)れば、
 
世知辛い世の中のことなど忘れて快くなりますよ
わーい(嬉しい顔)


と説かれました。



黄檗宗(禅宗)の僧である売茶翁。


禅宗には、他に臨済、曹洞がありますが、


黄檗はもちろん、他のどちらも極めた、


要するに【禅】を極めつくした


とてつもない人
です。



動真庵とは格が違い過ぎて、

恐れ多いのですが・・・
あせあせ(飛び散る汗)



確かに似たことをやってますね。



知らなかった自分が恥ずかしいもうやだ〜(悲しい顔)



でも、【動真庵】を創(はじ)めた意義や目的

理解して頂いていることに感激してしまいました。



動真庵 夏至に迎える 一周年

創(はじ)めてよかった 

茶でもどうぞ




ん〜・・・ひねりが足りませんね・・・たらーっ(汗)


posted by どうざん at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月04日

お釈迦さまものがたり[28]《悟りへの糸口》

雨梅雨入り雨した途端・・・



寒い・・・がく〜(落胆した顔)



しかし、今日は久しぶりに窓全開exclamation×2


かわいい気持よい風が吹き抜けていきますかわいい


ということで、

野いちご.jpg
野いちご



前回は、


無の境地

そして、絶対的な無


また、それらをずっと持続させたまま居続けること


これらは、私達に心が存在をしている以上



絶対不可能exclamation×2



というところで終わってました。



分かりやすく言えば、


「無の状態」になっている自分

を想い描いている



想いに浸っているだけってことです。


ですから、


想いを断ち切るという想いも、


同じ「想い」には変わりありません。


そんな想い「想念」の堂々巡りであり、


かえってそれは「想い」執着へと成りえます。



これらアララ・カラマー仙人がとなえる


非想(無)から非非想(絶対無)


といった考え方自体・・・


を常に自らとして携えながら生きている

私達人間のありのままの姿



言うなれば、


「想念」という不可欠ともいえる人間の意識の働き

無理に止めようとさせる「意思の働き」


を意味していることになるのではないでしょうか。


こうした「想念という不可欠ともいえる人間の意識の働き」は、


私達人間・心魂が持つ進化向上を促がしていくものとなりますexclamation


しかし、


心の内からこんこんと湧いてくる想い

無理に止めようとする「意思の働き」は、

人間進化向上を阻害させ、

さらにそれはそのまま新たなる想いを作り出していく



ということになるものといえます。 


また、精神分析の上で不可解な疑問も出てくるのです。 



人間にそなわる五体思考(想うこと)は、


この地上に生かされ生きていくために、

自然が与えてくれた・・・


言わば、

最低の保障であるはず。


私達人間はそう生きるように作られ、

そう生きられるように与えられている。



それを、どうして???


故意に、人間の浅はかな思考と意思によって

それら保障を破棄しようとする
のでしょうか。



これら人間性を曲げてまでの修行法には同調はできぬし、

そんな考え方からは神(バフラマン=梵天)の心を掴むことはできるはずがない。

こんな両極端ともいえる思考や行為からは、

生老病死からの解放へと導き出してくれる「悟り」など・・・

得られるはずもない。
 



ゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)それを思われたのでした。 




さすがにぴかぴか(新しい)お釈迦様ぴかぴか(新しい)ともあろう人です、

事を見てその理非を達観する

とても分析が鋭いexclamationと言えますねわーい(嬉しい顔)



ゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)は、

これら観察を通して、


やたら肉体をいじめ「身体不倶者」になることも・・・

意識思念を完全停止させ「生きていくこと自体をキャンセル」することもない・・・



「悟るための別な修行法の存在」を確信していく



そんな端緒がここで掴められていくことになるのですexclamation×2
posted by どうざん at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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