2013年05月22日

お釈迦さまものがたり[27]《悟り=無の境地??》

桐(きり)
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晴れ陽気な天気が続いてます晴れ


日曜日のピラティス&ランチ会(Facebookとは別バージョン)
NCM_0399.JPG
※注)五体投地(ごたいとうち)ではありませんよ(笑)
(両肘 ひじ 両膝 ひざ と頭を地面につけて行う拝礼)


インストラクターの阿南先生ですが、


他のインストラクターの方との決定的な違いがあります。


それは何かと申しますと・・・


現役の看護師さんであり、

さらに某病院の看護師長さんで、医師とともに糖尿病とピラティスについて研究もされていらっしゃるそうです。


体のことを医学的に詳しい方が、

ピラティスを通じて体と心のバランスをとる・・・


ぴかぴか(新しい)なんと素晴らしいことでしょうぴかぴか(新しい)



二足の草鞋・・・なんて揶揄する人もいるかもexclamation&questionしれませんが、



かわいい重要かわいいなのは、


草鞋の数ではありませんexclamation


一足だろうと、二足、三足だろうと



【何のためにその草鞋を履いているのか】



です。



自分にできることが色々あるのならば、


それぞれの才能を活かす


一足よりも、二足exclamation

二足よりも三足exclamation×2と・・・



そろうことによる相乗効果



期待できますよねわーい(嬉しい顔)



ちなみに、コンパルホールにては・・・
http://www.compalhall.jp/pdf/130401_2.pdf

《スポーツ講座》No.52 ピラティス入門


べっぷアリーナにては・・・
http://www.beppu-arena.com/sports.html#sports
(下の方)

《スタジオ教室》アンチエイジングピラティス


また、オーダーメイドで「プライベートピラティス」をご自宅でレッスンもしていらっしゃいます。


興味のある方は、動真庵まで連絡いただければご紹介できますよるんるん




では、「お釈迦さまものがたり」続きです・・・


アララ・カラマー仙人の言う論理、道筋


この世の根源は「混沌」そのものであって、

因果や道理、秩序や法則など何一つない。




果たして、すべてはそんな状況となってあるんでしょうか 


では早速、現実の宇宙、自然の姿やその運行を観察してみますと・・・


どういうことでしょう



どう贔屓目(ひいきめ)に見ても・・・


宇宙自然界は彼が説き示すような

無秩序・無節操な一過性ともいえる

気まぐれ偶然ばかりが矢継ぎばやに繰り返され、

まさに混乱・無責任な様相・・・


とはなっていませんよねexclamation×2


また、宇宙自然界が、

これから先、混沌となって推移していくようには・・・


どう見てもそう見えないし、そうなるようには思えません。


私達社会にしても様々な問題はありますが、


世の中の規律や秩序を守り、

良心にもとづいて人々は行動をし、

黙々と生活を積み重ね、

営々として世間・世の中を作り上げていっている
 

ようでもあります。


どうやら、アララ・カラマー仙人の言う通りには・・・


なってはいないようです。 


また、もし宇宙・生命の根源が「混沌」であり、

すべてのすべてが無秩序・無原則・偶然だけで出来上がり、

因果道理など通用しないものとすれば、

論理や筋道を立ててものごとを考えること自体・・・


全くのナンセンスexclamation×2


できない相談となるわけです。

ですから、アララ・カラマー仙人自身が

皆々を納得させるべく論を立てて、

滔々と自説を語ることもできなくなり、

またそんなやり方が許されるべきこととはなりません。あせあせ(飛び散る汗)


まあ、どう考えても・・・


彼の説はおかしいといえるんです。


ですから、「無の境地」についても言えるんですね〜。 


・・・では、

まず私達人間の意識を「ポカ〜ン」と「無」にしている

あるいは「ポカ〜ン」と「無」にさせている

心・空白の状態(アララ・カラマー仙人がいう非想の境地)を考えてみて下さい。


そんな「カラッポ」な心の状態のときでも、

私達は空白という想念一コマ、一コマを作っているのではないのだろうか

ということであります。


なぜならば、先述したように


心そのものは永遠なる生命体となって生き、

それゆえに心は瞬時も休むことなく

意識活動をし続けているもの



でありますから、そこにがある以上は・・・


何がしかの想念を描こうとして

心のスクリーンに意識という光を射し向け、

様々な意識想念を働かせていることになる・・・



だからです。 


心とはそういう本質を持つものであります。 


ですから、

たとえ「ポカ〜ンとした無の状態」となっていても、

心(意識の働き)がそこにある以上exclamation

そこには「ポカ〜ンとした無の想念」がすでに映し出され、

出来上がっていることになります。


ならば、その場合、あやふやとはいえ、

確とした「無」という心の画像意識想念上に描いていることになり、


決してそれはアララ・カラマー仙がいう

「無の境地」

となるものではありません。


それゆえ彼がとなえる「無の境地」など、


もしや、一種のまやかしexclamation&question


となってしまいます。


ましてや非非想の境地とされる「絶対的な無」など、


それは観念遊戯の所産にしか過ぎないことになってしまいます。



つまり、心がそこに存在をしている以上・・・


想わぬ想いなどあり得ないexclamation×2


ということです。

 
ですから、


私達人間の意識を常に

「ポカ〜ン」と「無」にさせる心・空白の状態

ずっと持続させたまま居続けることそれ自体も、

はたしてそれが可能といえることかどうかといえば・・・


それもできることにはなりません。


がある以上、絶対不可能なんですふらふら


また想いを断ち切るという想いも・・・


・・・続く。



ここ最近の「お釈迦さまものがたり」は、同じような内容を繰り返し書いています。


何故かと言えば、


ぴかぴか(新しい)お釈迦様が悟りに至るキーポイントぴかぴか(新しい)


となっているからです。


もう少しお付き合いくださいねわーい(嬉しい顔)


posted by どうざん at 21:15| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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