2013年05月17日

お釈迦さまものがたり[26]《根本=混沌??》

だいぶ間が空いてしまいました。たらーっ(汗)


久しぶりの更新です。るんるん


ありがたいことに、何だか忙しくさせて頂いておりました。
(更新していなかった、ただの言い訳ですあせあせ(飛び散る汗)


ここ最近、色々な花が咲き始め、

新緑の色に加え、カラフルな花々が心を和ませてくれます。

杉に藤ツリー
NCM_0392.JPG


ではでは、「お釈迦さまものがたり」の続きを・・・




アララ・カラマー仙人からすれば、


自己のまわりにあるすべてのものには


因果道理秩序法則など一つもなく


まさに宇宙・生命の根源「混沌」そのものであって、


すべては

「あるがままにあって、なすがままに流れゆく、

またあるがままにできあがり、なすがままに消えていく」



そんな気まぐれ偶然ばかりが繰り返すだけの野放図な連続そしてまた連続・・・


それだけが外界の事象となってあるに過ぎないものと見なすわけですから、


我々人間のの状態もこれと同じような


無関心・無執着へと向かった意識境地

あるいはひたすら「我(が)」から離れた意識境地


すなわち「無の境地」であるべきことが


自然道理として一番相応しいとするのです。 


アララ・カラマー仙人は、


宇宙・生命の根源たる「混沌」

即自一体となる「無」の境地こそが、


悟りの境地に一番近いものであるexclamation×2


としたのです。 


分かりやすく言えば、


元々が「混沌」なのだから、

ものごとを考えるなアレコレ詮索するなexclamation

心の中はカラッポにしておけexclamation


ということであるわけです。



ちなみに、「混沌」からなるアララ・カラマー仙人の論理を

より具体的に展開させてみると・・・ 


宇宙ないし生命の基(もとい)は、

実に「混沌」とした

わけのわからぬ、

捉えどころもなく、

つかみ得ないものである
と、

まずは断定します。

そうした「混沌とした宇宙・生命」から

「我(が)」というわけのわからぬ業(ごう)が生じ、

この我(が)という業(ごう)から「愚かな心」が生まれ、

それが「愛執」へと囚われていく。 

この「愛執」「肉体」を生み、

肉体をまとって生きていかなくてはならない私達人間からは、

肉体にかかわるあらゆる「煩悩」がそこで必然的に漏れ出し

不作為とはいえこの「煩悩」の姿様々な姿・形に現われ出して、

その結果として「生老病死」という苦しみが起きてくる。

こうした道筋を彼はとるのでありました。 


アララ・カラマー仙人が立てる論理の筋道は、

先のヴァックーバー仙人とは比較にならぬほどよく通っており??

一見なるほどとも思われます。

 
でも、果たして宇宙・生命の根源がはたして「混沌」といえるものなのか 

そうはっきりと断言してよいものだろうか


彼から言わせれば、

知性や理性を凝らして科学究明をほどこし、

世の中の幸福繁栄、人類の進化向上をすることなど、


やるだけ野暮(やぼ)exclamation


そうしたちっぽけな事柄にかかわることなく、


「混沌」「無」


という大局に向けて生きていくこと

それこそが私達人間のあるべき心魂の姿としたのです。


そうすると、ゴータマ・シッタルダ(お釈迦様)のように、


世の中の現象をつぶさに観察し、

やがては生老病死の苦に逢着をし、

そこから解脱する道を究明していく
人物など、

アララ・カラマー仙人からすれば・・・


徒労に身を砕いているだけの「我(が)」の塊りにしか過ぎない小心者


といえることになるんでしょうね。


次回、

《悟り=無の境地??》

です。


posted by どうざん at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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