2013年02月26日

お釈迦さまものがたり[19]《アララ・カラマー仙人「我(が)」》

昨日までは、暖房いらず晴れこんなに天気がよかったのに・・・

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今日は、雨です雨



それでは、

アララ・カラマー仙人の言う「我(が)」とは、


「意識」表面意識層「無意識」潜在意識層から 


何がしかの想念を働かせようとする意識作用

ないしは

そのものが本能的に働こうとさせる意思作用のことを意味します。



ここでの「我(が)」とは、


意識ばかりでなく


無意識なまま、オレだ!オレだ!と意が働いていってしまう自分へのこだわり」

「知らずとも逢着してしまう自意識への自然回帰」


といえるものであり、


まあ言ってみれば当然ですが、


私達はわからないうちに


心全体(表面意識・潜在意識)からなる意識


自分自身へと向けていくのでありますが、



これをアララ・カラマー仙人



「我(が)」と言ったのです。



以上、


「意識」「無意識」「無の境地」

そして「我(が)」について説明をいたしました。




おさらいです。



「意識」とは・・・


10%・表面意識からする私達日常の意識活動



「無意識」とは・・・


私達・心の中に隠された90%・潜在意識から働くことになる意識活動で、

普段は現われないけれども、まさに無意識のうちに自分となって意識しているもの



「無の境地」とは・・・


表面潜在の両意識活動が完全に停止された、

いわば心不在の状態
※特別な場合を除き、実際にこの状態を作り出すことは不可能


「我(が)」とは・・・


私達の心(表面意識潜在意識)が知らぬうちに本能的に自分自身へと赴こうとする意識作用



ということになります。



ただ〜しexclamation


これは結論となってしまうのですが、


アララ・カラマー仙人が目指していた「無の境地」


まあこれは言ってみれば、


全意識の停止心不在が叶ったの境地」ということになりますが、


そんなことは・・・



できっこありません。



なぜならば、


「心」というものは・・・


それこそぴかぴか(新しい)神様の分け御霊(みたま)ぴかぴか(新しい)

となって永遠な生命をいただき、


この世・あの世を超越して存在をし、


決して滅することがない、


まさに「久遠な命」そんな本質をそなえているからといえます。



「心」というものは、


それが存在しているかぎりにおいては、


永遠に・・・それこそ、とこしえに生き続けようと、


即ち意識(表面ないし潜在の意識)活動を働かせようとしている生命体であるからです。


アララ・カラマー仙人には、



こうしたの本質正しい解明に及ぶことまではされなかったのです。




ですからアララ・カラマー仙人は、


ゴータマ・シッタルダお釈迦様とは違い、



実際に「悟る」ことはできなかったことになるわけですが、



アララ・カラマー仙人悟れなかった根本理由は、


欲望をあからさまに求めようとする「我(が)」ばかりでなく、


人間本能ともいうべき生きていくための意識無意識からなる意識生命活動をも、


これを「我(が)」であるとして無理に抑え込もうとした


いわば「心」の本質を無理にねじ曲げた


「無の境地」に彼は敢えてこだわったからといえます。



それはともかくとして、


先のヴァックーバー仙人は、


煩悩苦を生み出すとされる「肉体」に焦点を絞ったのに対し、


アララ・カラマー仙人は、


肉体ではなく「心」

それも

意識(表面意識)ばかりでなく無意識(潜在意識)からの自分へのこだわり(本能的に働こうとする心の意思)すなわち 我(が)

そのものに着目をしたわけであり、


その点はとても優れたとらえ方をしていたことになります。


先にもある通り、


「無意識」までの自分を否定しようとした点は難点があるも、


眼が覚めているかぎりにおいて、


自分とともにいつでも自分となって

意識としての「我(が)」が働き、


自分は生きているわけ
でありますから、


それに気づき


それを苦の原因としたことは、



明察なとらえ方をしていたということになります。



最近の『お釈迦さまものがたり』は、一番大事なを扱ってますので、

やや難しくなってきてますがあせあせ(飛び散る汗)

もう少しお付き合い下さいたらーっ(汗)


数回先では、お釈迦さまの瞑想法も紹介していきますexclamation


そして次回は、

アララ・カラマー仙人の

「我(が)」を捨てるための修行法


をお送りします。わーい(嬉しい顔)


posted by どうざん at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月23日

お釈迦さまものがたり[18]《アララ・カラマー仙人「無」の境地》

動真庵の裏山へと続く山道。
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ちょっと!?整備すれば、散歩コースができそうです。


木々に囲まれているので、癒しスポットとしてもよいかも。わーい(嬉しい顔)




ではでは、



今回は、肉体苦行ではなく、


「無」の境地になることを求め、


それによって「悟り」の証しを得たいとするアララ・カラマー仙人



瞑想行についてです。


 


アララ・カラマー仙人




「生老病死の苦しみすなわち煩悩は、我(が)基(もとい)である」

「我々が意識ないしは無意識のうちに働かせてしまう我(が)へのこだわりが、
生老病死という煩悩苦しみを引き起こすのだ」


「だから、自らのから我(が)を働かせないようすれば煩悩は起こらない」

「そのためにはをもっぱら、無(む)(無の境地)にさせていく瞑想修行をしなくてはならない」



とする教えです。 



ここで「意識」「無意識」


アララ・カラマー仙がとなえる「無の境地」について、


それぞれの違いを後年の釈迦・お悟りの見解に立たせ説明していきましょう。



まず、ここでの「意識」とは、


の表面層・10%の表面意識の働きをいいます。


一般に意識とは、


のスクリーンに何かを描こうとする働きをいい、


それは具体的な想念画像(想念)へと繋がっていきます。 


これは私達が日常生活の中で行っている


通常の意識活動に該当いたします。 


次に、ここでの「無意識」とは、


そうした表面意識が働こうとする以前のの状態を意味し、


私達のの中にある


表面意識の内に包まれた奥層・90%の潜在意識が働く意識活動をいいます。


これは私達が持つ隠された意識となってあるもので、


日常使っている10%表面意識ではなかなか現われ出ることが難しい



ぴかぴか(新しい)神仏と同通がされる心の中心核ぴかぴか(新しい)

ないしは

「私達の守護・指導霊の居る霊界」


とに通ずる意識に相当し、


創造と自由と智慧

そして、慈悲と愛とに満ちた溢れた


ぴかぴか(新しい)無限の宝庫ぴかぴか(新しい)


となってあるものです。


それはまた、表面意識が眠った眠い(睡眠)


夢の中で働くことになる


自分自身の正直な意識活動でもあり、
※夢と潜在意識の関係については、後日書きます。



私達みなそれぞれ各人に等しく内在する


「心のふるさと」


といえるものでもあります。


ここでは言葉の上で「無意識」とはいうけれど、


意識そのものは潜在意識となって働いていることになるので、


広い意味ではやはり意識といえ、


先に示した「意識」=表面意識とは


本質的に変わりはありません。


そして「無の境地」についてですが、


アララ・カラマー仙人自身が当時、


こうしたの分析をしていたかどうかは別として
※なぜならば上述の表面意識潜在意識などの知識概念は、釈迦が後年悟ることによって知りえた事実であるから。


アララ・カラマー仙がとなえる「無の境地」とは、


表面潜在からなるの全意識を完全に働かせないようにするという、


まさに、


「意識」「無意識」の停止

(イコール)

    心不在の状態


を意味していたことになります。 



でも、これは不在の状態になりますから、


このような状態になるというのは、


ほぼ有り得なく、あるとすれば・・・


交通事故など突然死の場合に起こる可能性があるという


無意識状態(無意識界地獄)に堕ちたとき以外には、
※ここでいう地獄とは?というのも後日、書きたいと思います。
※重要なポイントは、【地獄】という場所が予め用意されているわけではない!ということは、知っておいて下さい。
 



心不在 =「無の境地」


という状態が起こることはないといえます。 



そして、次回


アララ・カラマー仙人の言う「我(が)」とは??


お楽しみに!
posted by どうざん at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月19日

お釈迦さまものがたり[17]《生きものの命》

用事で、佐伯市へ行ったところ見付けましたexclamation×2

夕刻撮影
NCM_0377.JPG


がもう咲いてまするんるん



湯布院は、まだまだですねぇ・・・寒いふらふら



そして、前回に続き・・・


今回もまた、ヴァックーバー仙人です。


ヴァックーバー仙人は、



苦行を積んで


煩悩
が生ずることがないボロボロな肉体の状態のまま死んでいけば・・・


死後必ずぴかぴか(新しい)天上界ぴかぴか(新しい)に生まれ、


そこでが得られる・・・



という。 


しかし、よくよく考えてみればわかることですが、


死後の世界では、


この世の肉体を持つ必要などないのだから、


そこでは肉体から漏れ出す煩悩など湧き起こること自体・・・



ありえないexclamation×2ということになり、



それはもうそのまま


煩悩が湧き起こることがないぴかぴか(新しい)天上界ぴかぴか(新しい)


ということになるでしょうし、



それから、ぴかぴか(新しい)天上界ぴかぴか(新しい)ですが、


それは安らいでいることが安住とされた世界という意味を持つわけだから、


今生この世にて


常に安らいだを持って生きていれば、


死後もそのまま、


安らいだ世界

すなわち

ぴかぴか(新しい)天上界ぴかぴか(新しい)

へと行けることになる
のではないでしょうか。



何故ならば、



そもそも、因果応報=循環ということが原則である


ヴァックーバー仙人は言っています。 



また、私達人間は肉体を持ち、


そこで抜け出すことができぬ煩悩という苦しみ宿命的に背負わされた



そんな「はかない」生きもの



といえるのでしょうか? 



それでは、同じ肉体を持っている生きもの


人間以外の生きもの達



「生きざま」を見てみますと・・・



察するに、人間以外の生きもの達が、


そんな深刻さを常に抱きながら生きているようには・・・


どう見ても


見えないですよね。わーい(嬉しい顔) 



彼ら生きもの達は、


さも自然に、本能がおもむくままに、


生命いっぱいのかぎりを尽くして大自然とともに生きていこうとし、


そして無為自然のまま死んでいっています。 


に際して、彼らは、何らおびえる風も見せず、


それこそ、宇宙自然界渾然一体・完全同化されて


「いのち」を全うさせています。


不安も懐疑も躊躇もせず


生きそして死んでいっているように見える。 


何の因果でしょうか?


私達人間ばかりが、


肉体煩悩からの苦しみにおびえ、


それから逃れたいとして苦行という生き方を選び、


死後の世界に託して


を求めようとしている。



こうして見てみると、


何だかちょっと・・・



人間は考え過ぎじゃないの?



と疑いたくもなりますよね。あせあせ(飛び散る汗)



次回

「無」の境地 アララ・カラマー仙人です。

お楽しみにわーい(嬉しい顔)
posted by どうざん at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | お釈迦様ものがたり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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